この間、家族でディズニーランドに行った時、
子供用の広場にキャラクター物の銃で
闘いごっこをしている少年がいた。
相手もおらず1人だったが、彼の頭の中には
敵もいて味方もいて、本物の武器をもち
戦場を駆け回っている場面があったのだろう。
ディズニーランドという強い世界観が完成された場所で
それを凌駕する想像力はひとつのスキルのような気がする。
例えば、児童書に多く見られるファンタジー物や
空想や冒険好きなキャラクターたちは、
ただ子供向けだからだけでなく
好き勝手に空想することは何も悪いことではなく
むしろ伸ばした方が良いものだというメッセージが
込められていると思う。
「赤毛のアン」のアンは大変な空想好きでおしゃべりな娘。
そこがアンの魅力であり好きなんだというファンが多いと思うが、
世話をするマリラは初めのうちは止まないお喋りにうんざりしたり
アンの空想を咎めたりもした。
誰かに咎められても止められないのが空想であり、
アンも何かにオリジナルの名前を付けたり
自分の理想の姿をした女の子を作り出し友人としていた。
周りも呆れながらも段々と空想好きのアンに好意を持っていく。
また「モモ」の作品の中でも、
町の子供たちはモモと一緒にする空想ごっこが楽しくて大好きだった。
その辺に落ちている石や家にあった空き箱なんかを違う何かに見立てて
空想の中で海を冒険した。
この、何でもない物を何かに見立てたり
自分じゃない理想の何かになったつもりになって遊べる空想力が
備わっているに越したことはないんじゃないかと考える。
「モモ」では灰色の男たちに時間を奪われ、
大人たちが忙しなく生活しだすと、
子供たちの環境も変わり、学習塾やおもちゃを与えられる。
モモと一緒に遊ぶこともなくなり、彼らなりに忙しくなった。
だけど、充実感はなく何となく退屈でつまらないと感じていた。
彼らの遊ぶおもちゃは、空想する必要がないもので
それはそれで面白いのかもしれないが何か物足りない。
違和感というほどではないけれど、これじゃない感じ。
時間に追われる大人も何だか違うと感じていた子供達も
彼らの姿はどことなく今の私たちに似ている。
何だかなあと思いながらも、こんなものだと半分諦めている。
でもそれって少し勿体無いんじゃないかと作品を通して
作者たちが伝えてくれているように思う。
赤毛のアンのマリラも、モモの大人たちも
余計なことは考えず今を生きなさいと子供達を諭すが、
空想に勝る遊びはないので、それを禁じられたなら
楽しみが一気になくなってしまう。
よく出来たおもちゃだって悪いわけではないが、
自分のもつ想像力と掛け合わせて遊んだ方が
より遊び方が何通りにも増えて
より一層楽しめるんじゃないか。
そして、いろんな常識や過去に引っ張られずに
自由にいろんなことを想像できる
頭の柔らかさは、子供の頃に育ててこそだと思う。
大人になっても何か嫌なことを乗り越えるときに
自分以外の何かになったつもりで片付けるのも、
ひとつの手段であり、嫌々やるよりも
ストレスが少ないはず。
子供のうちは彼らの想像力をできる限り伸ばしてあげたい。
空想しての1人遊びも悪くない。